2020年9月26日土曜日

ベーシックインカム/誰もロードマップを示さないのはなぜ

私は大手企業に勤める技術系サラリーマンなので、単なるニュースウォッチャーとしてベーシックインカムの報道を見ているだけですが、以前から疑問に思っていることがあります。

それは、「なぜ誰も導入に向けたロードマップを提示しないのか」ということです。

ベーシックインカムは今日、国会で決議すれば、明日から導入できるようなものではないはずです。

来るべき「ベーシックインカムのある社会」は、現在の「ベーシックインカムのない社会」とは相当に異なり、そこに至るまでの道筋の案を示してもらえなければ、「実現可能性のある制度」であるという認識のもとで議論することができません。

どの制度を残し、どの制度を廃止するのか、あるいは、既存の仕組みと新しい仕組みをどのよな順序で入れ替えていくのかについて具体的に示されないので、誰も将来実現する制度という認識を持てずに、議論が前に進まないことになります。

経済学者や社会学者でそのようなことに真剣に考えておられる研究者の方はいらっしゃるのでしょうか? なぜそのような方はテレビに出て(Youtubeでもいいです)、自らのプランを語ってくれないのでしょうか?

私は「誰も真剣にベーシックインカムの導入について考えていない」と思っていますが、本当のところはどうなのでしょうか?

竹中平蔵氏もテレビ局から「何かアイデアを提示してほしい」と言われて、「それなら手垢のついたベーシックインカムについて語ってみるか」と思っただけで、本当に「ベーシックインカムのある社会」が来ることが望ましいとは思っていないように思われます。

つまり、ベーシックインカムというのは、「テレビ局がネタ切れしたときに、隙間を埋めるためのネタ」というのが、私の認識です。

ちなみに、現在の私自身の身の回りで考えれば、大学生の息子への仕送りがベーシックインカムに置き換わって、学費の一部を補助してやるような感じになるように思われます。このような観点で見れば、「経済的な理由で大学進学をあきらめる」という人は大幅に減るかもしれません。それがいいことかどうかは別ですが・・・。


井上孝之

プロフィール
若いころにベーシックインカムがあれば、ロックミュージシャンになる可能性を追求したかもしれない技術系サラリーマン

2020年7月5日日曜日

レジ袋問題は欧米人の自己満足

アゴラがレジ袋についての意見を募集しているので、思うところを述べさせていただきます。

海洋プラスチック問題に端を発したレジ袋問題については、欧米人による「俺様は正しい、お前は間違っている。だから、俺様が作ったルールじ従え」運動の一つだと思っています。

他の人の何らかの問題点を見つけて、「お前は間違っている」と難癖をつけて、相手の行動を変えさせることは、「自分は正義を成した」という満足感と、「自分の作ったルールに相手を従わせる」という満足感に加えて、最初にルールを作った者の特権として、「そのルールを自分に有利に作ることができる」という特典までついてきます。

これはCO2削減運動とも「問題点を見つけてきて、自分たちが作ったルールに従わせる」という点で共通しています。ESG投資、SDGs、最近で出てきたTCFDも同様です。

ここで問題となるのは、活動家の目的が「自分たちの正しさを相手に認めさせて、自分たちの作ったルールに従わせる」ことなので、「必ずしも科学的に正しくなくてもいい」と考えていることです。

相手に自分たちが作ったルールに従わせるためには、相手が受け入れやすい論理を用意する必要があります。海洋プラスチック問題も、自分たちが捨てたゴミによって、海の生物の生物の生活環境に影響が出れば良心が痛みます。異常気象が増えて、水害が増えれば、自分も被害に遭うのではないかと不安になります。そういう心の隙に、「我々のルールに従えば、良心が痛んだり、不安になったりすることなくなりますよ」と言って近づいてくるのが彼らの常套手段です。(まるで新興宗教の勧誘です)

従って、「俺様は正しい、お前は間違っている。だから、俺様が作ったルールじ従え」という主張のポイントは、相手にとって受け入れやすいかどうかであって、科学的に正しい、あるいは、本当に地球に良いかどうかは関係ありません。

こういう問題が厄介なのは、迂闊に批判すると、「世の中の潮流に反する人間」というレッテルを貼って攻撃してくるので、批判をする前に科学的な根拠をしっかりと集めておく必要があります。

ここで、私の職場の部署長について考えたいと思います。彼はCO2削減もESGもSDGsも大好きで、部署の方針書はそういう言葉が躍っています。部署の社員の仕事内容に何らかの変化があったわけではありませんが、社内では「先進的な取り組みを行っている部署」と見なされるようになりました。

彼は自分が「世の中の潮流に敏感で、そういうことに積極的に取り組む人間」とPRすることで、出世の階段を上がっていきました。彼を見て思うことは、「こういう取り組みをしても、地球環境が良くなるわけではないが、自分の給与明細の数字は良くすることができる」ということです。10年ぐらい前に彼の取組みを知っていれば私の給与明細の数字も多少は違ったのではないかと考えている次第です。


井上孝之

プロフィール

私の人生のロールモデルとなりつつある我が部署長ですが、科学的根拠の希薄な取り組みに彼ほど熱心になれないところが私のサラリーマンとしての限界だと気が付きつつある技術系サラリーマン

2020年6月12日金曜日

新型コロナウィルス対策で建設的な議論ができないのはなぜか?(その2)

(その1)からの続きです。

◆ネットも議論を収束させるエンジンにならなかった
ネット上では一部の方がかなり的確な分析や提言を行っていたと思いますが、その分析や提言にもとづいて現実社会の対策が方針づけられることはありませんでした。なぜでしょうか?

ネットにはまだ既存の大手メディアほどの影響力がないということもあるかもしれませんが、それ以外の理由もあると思います。

ネットで意見を発信する人は、自説の正しさを主張したり、意見の異なる人への攻撃したりすることに注力してしまって、社会をよくするために合意形成に向けて努力するという人は現れなかったように思われます。

堀江貴文さんもYouTubeで傾聴に値する意見を発信されていましたが、自分の意見を理解しない人をバカ呼ばわりすることで、彼の意見を支持する人を減らしてしまったように思われます。

ネットでのインフルエンサーの影響力はネットの中だけで、現実世界の政治に影響を与えるのは、情報を垂れ流すテレビを見ている老人であるということでしょうか?

ネットというのは、検索をかけて自分から情報を取りに行く人にしか情報をもたらさないので、社会の多数の人が「テレビで垂れ流される情報だけで十分」と考えるのであれば、社会全体での合意形成を図る手段としては限界があるのかもしれません。

◆科学者が役割を果たさなかった
私は当初、「科学者は科学的に正しい知見を発信するだけでなく、ワイドショーで垂れ流される間違った情報をつぶす役割も果たすべきである。間違った情報が社会に広がってしまえば、その情報にもとづいて政策が決定されてしまうおそれがある」と考えていましたが、最近は考えが変わってきました。

それはあまりにも頓珍漢な意見を発信する自称科学者が多いためです。科学者はワイドショーで垂れ流される間違った情報をつぶす前に、エセ科学者のいい加減な発信をつぶすことに労力を投入しなければならないというのが、科学界の現実かもしれません。

今回のコロナ禍で明らかになったことは、「日本の科学者は今まで思っていたい以上にバカが多い」ということではないでしょうか? 私も理系人間として恥ずかしいです。

◆経済への影響を考慮した感染症対策が検討されていなかった
感染症には、エボラ出血熱のように経済損失を度外視してでも封じ込めなければならないものから、今回の新型コロナのように経済損失を抑えながら共存しなければならないものまであるはずです。

共存型の感染症の対策については、感染を抑える効果のほかに、経済活動への影響という観点からも有効性を評価する必要があったはずですが、そのような観点では深くは検討されていなかったようです。

この点については、ようやくなし崩し的に経済活動が始まって考えざるを得なくなったので、次の冬は感染爆発を起こさない程度に押さえ込みながら経済活動を続けることができるのではないかと考えています。

◆「許容できる被害」に関する議論がなかった
今回の新型コロナはもともと被害者数をゼロにすることはできないので、例年のインフルエンザの死者数程度は許容するというような社会的合意を作るような議論が必要があったのではないかと考えています。

「許容できる被害」についての議論を行っておかなければ、ゼロリスク信仰に従って、「許容できる被害」とは「ゼロ(あるいは、可能な限りゼロに近く)」ということが目標になってしまいます。そして、経済やその他のあらゆるものを犠牲にして、目標の「ゼロ」を目指すことになります。

「許容できる被害」に関する議論は次の冬にどのくらい経済活動に制約を与えるのかと絡んでくるので今からでも遅くないと考えています。


◆(番外編)私の働き方について
私自身にとっての今回のコロナ禍の最大の成果は、会社でテレビ会議が普及したことです。私のオフィスは都心の本社から電車で1時間ぐらいのところにあるのですが、会議のたびに本社に呼び出されます。30分で終わる会議にも呼び出されて、往復2時間かけて本社まで行っていました。

「テレビ会議で参加させてほしい」とお願いしても、「やったことがない」「やり方が分からない」「めんどくさい」「あなた一人のためにそんな手間はかけられない」「会議はフェイストゥーフェイスでなければ本当の意思疎通はできない」とか言って断られていました。

私の勤めている会社は技術力が高いことが売りなのですが、技術力の高い会社の社員が新しい技術を使いこなせるというわけではないのです。あと、若い人からも断られます。若い人なら新しい技術を使いこなせるということもありません。

新型コロナのおかげで、ようやく会議はテレビ会議が当たり前になりました。あれほど頑なに断っていた人たちも、今では「テレビ会議って使ってみれば便利だね」とか言っています。

次にハンコについてですが、私の部署の幹部たちはハンコを押すためにコロナ禍の最中も数日に一度は出社していました。また、とある公的な研究期間との共同研究契約書では、とりあえず自分のところのハンコを押した契約書をスキャンしてPDFファイルとしたものを取り交わすことで仮契約書として、コロナが収まった後に紙に調印した文書を取り交わすという二度手間方式とすることで決着しました。そうまでしてでも紙にハンコをしたものが必要ということで、ハンコが撲滅される日はかなり遠いようです。

井上孝之

プロフィール
私の勤めている会社は長期プロジェクトがメインなので、現状では海外のプロジェクトは止まっているところもありますが、国内案件は若干の遅れが出た程度の影響しか受けておらず、夏のボーナスも予定通り出るようです。しかも、私自身はテレワークのおかげで仕事が楽になっているという幸運を噛みしめている技術系サラリーマン

2020年6月6日土曜日

新型コロナウィルス対策で建設的な議論ができないのはなぜか?(その1)

私は一介のサラリーマンで、働く場所が「会社の窓際」から「自宅の窓際」に変わったぐらいの影響しか受けていませんが、新型コロナウィルスに関連した動きを見ていて、「なぜ建設的な議論ができないのか、なぜ合理的な着地点に向かうことができないのか」という疑問について思うところを記したいと思います。
なお、いわゆる「コロナ脳」や「情報弱者」を「バカ」という言葉で表します。下品な表現ですが、ご容赦ください。

◆バーターで議論することができない
新型コロナウィルスの問題が表面化して以来、多くの識者が「新型コロナの封じ込め」と「経済活動の維持」のバランスをいかに図るかがポイントであるという指摘があるのですが、なぜか両者のバランスを取るための議論は行われません。あくまでも、全力で「新型コロナの封じ込め」をやったうえで、経済活動の補填も行うというスタンスで議論されます。

緊急事態宣言(行動制限)の解除を早めると、再発のリスクが高まるのですが、再発が起こる確率、起こったときに生じる問題の大きさと経済活動を制限したときの問題の大きさを比較して対策を講じる必要があるのですが、テレビ・新聞・政治家はそのような論点で議論をしようとしません。
 
私は最初、「日本人は2つのことをバーターで議論することが苦手だから」が理由だと思っていましたが、ワイドショーのいい加減な報道を見て、「世論を形成するテレビ・新聞・政治家の主なマーケットは『バカ』で、『バカ』は二つのことを同時に考えられない」が理由ではないかと考えるようになりましたが、いかがでしょうか?

バーターで考えなければならないのは、「給付金支給の迅速性」と「政府にどこまでの個人情報を持たせるのか」や、「国民の行動制限をどこまで徹底するのか」と「政府にどこまで強い権限を与えるのか」のような問題もありますが。バーターで議論されることはありません。

◆為政者の判断基準を理解していない
パンデミックの特徴は短時間に感染者数が爆発的に増えることです。そして、感染者数が医療機関のキャパシティを超えるとパニックが起こります。

もしパニックが起これば為政者は責任を問われるので、為政者としては経済を殺してでも過剰に「新型コロナの封じこめ」をした方が合理的です。

ファクターXにより日本では爆発的なパンデミックは起こらないという仮説を提唱する人もいますが、その仮説が科学的に絶対的に正しいとは証明されているわけではないわけではないので、為政者がその説によって立って政策を行うことは難しいと思われます。

政治家に過剰に「新型コロナの封じこめ」をやめさせるには、民衆の側から「経済とのバランスをとってほしい」、「第二波が起こっても責任を問わない」、「医療崩壊が起こってもパニックを起こさない」というようなメッセージを発する必要ありますが、そのようなメッセージは民衆の側からは起こりませんでした。

◆負担を強いるなら老人
今回の新型コロナ問題の特徴は「負担を強いるなら老人」ということだと思います。老人に集中的に被害が出るので、「老人だけに自宅待機してもらって、若い人の行動は自由にして経済活動は維持する」ということは新型コロナの特徴に合致した合理的な対策ですが、老人を最大のマーケットとする新聞・テレビ・政治家が老人から嫌われるような政策を選択することはありませんでした。自粛の対象者を「老人だけ」でなく「すべての人」と主張することによって、「老人から嫌われること」を回避することに成功しました。

年金をもらっている老人にとっては経済が縮小しても直接の影響は小さいので、老人は経済活動について関心は小さく、「自分の活動の自由の確保と感染リスクの最小化」が図れればいいので、自分たちにだけ集中的に行動制限がかかるのではなく、若い人にも活動制限をかけてもらって、若い人からの感染リスクを小さくした方が合理的です。

老人が経済について関心を払わないなら、新聞・テレビ・政治家もまた経済について関心を払う必要はないということになります。

新聞・テレビ・政治家は自分たちが生き残るために最大の顧客の意向を忖度して行動しているにすぎないので、批判することはできません。むしろ、若い人が選挙に行かないことによって政治家への影響力を放棄してしまっていることことそが問題です。若い人には、「政治家が過剰に老人に気を遣うのは若い人が選挙に行かないから」ということに気付いてほしいと考えています。

◆新聞・テレビに議論を収束させる気がない
新聞・テレビをはじめとするマスコミは「事態が混乱するほど、新聞を買う人、テレビ見る人が増えるので儲かる」という構造になっているので、事態を収束さるような方向の報道をすることはありません。

読者・視聴者が求めているのは、「アベが悪い」と「国民にゼロリスク」なので、議論を混乱させながらも、最終的には結論がそれにつながるように誘導しています。

あと、読者・視聴者は必ずしも科学的に正しい報道を求めているわけではなく、科学的に間違った報道をしても、大したペナルティがないので、感染症の専門家でない医学系の研究者の名前を出して「専門家の意見を聞いた」という体裁を整えておけば、あとは視聴率を取るために「やりたい放題」ということになっています。

(その2)に続きます。

井上孝之

プロフィール
仕事がテレワークになった以外、何の影響も受けていない技術系サラリーマン

2019年11月9日土曜日

英語民間試験問題:「日本人にとって英語は難しい」と素直に認めよう!

私は英語のテストに苦労させられたので、英語のテストや学習法についてはいろいろ思うところがあります。

私は文法や構文が得意だったので、受験生のときは得意科目だったのですが、会社に入ってからTOEICのテストを受けさせられるようになると、リスニングが苦手で英文を読むのが遅かったので、点数がなかなか上がらず相当に苦労させられました。
TOEICの対策本を買ってTOEICの点数を上げることに特化した勉強をしたり、会社のお金で短期の語学留学させられたり、40代になってから一念発起して英語に再挑戦したりと英語についてはいろいろ考える機会があったので、それをまとめたいと思います。
日本の英語教育を考えるうえで確認しておく事項は下記の3点であるように思われます。

1.英語は日本人にとって難易度が高い
日本人が英語を話せないのは、英語が日本語の語彙、文法、発音の点であまりにも違いすぎて、日本人にとって難易度が高いからであり、学校教育における英語学習法が悪いわけでないことを改めて確認する必要があります。
「難しいから克服できない」というのは敗北主義のようですが、挑戦する課題の難易度を正しく評価することは課題克服の第一歩です。
私も一応はその業界のトップクラスの会社に勤めているので、同僚はみんな高学歴で、東大、京大、早稲田、慶応・・・といますが、彼らのほとんどはペーパーテストとしての英語の試験では高い点数をとることができても、英語は話せないので、「英語を話せるようになる」ということには相当に高いハードルがあると認識すべきです。
世の中には、英語の習得が得意ですぐに話せるようになる人もいますが、その人は単に才能に恵まれていただけで、その人と同じ勉強をすれば誰でも英語を話せるようになるわけではありません。これは数学の問題で、一度説明されれば理解できる人間と死ぬまで理解できない人間に分かれることと同じです。私も英語の得意な人からいろいろ勉強法についてアドバイスをもらいましたが、才能があるからできる勉強法が役に立ったことはほとんどありません。
「文部科学省がもっといい方法で教育すれば、きっと自分も話せるようになるはず」というのは幻想で、そんな方法は存在しないと認識することがこの問題を考えるスタート地点だと考えています。その点を確認できないと、「きっといい方法があるはず」と考えて、存在しない解決策を探し続けることになります。今回の英語の外部テストもその一環で、「テストの方法を変えれば、子供たちの英語力が向上するかもしれない」と安易に考えて、子供たちを実験台にしただけです。
日本人の英語力が向上しないことは、政府や文部科学省を批判したい人にとっての「鉄板ネタ」であって、そういう人たちの目的は「子供たちの英語力を向上させること」ではなく、「政府を批判すること」なので、そういう批判を真に受けて、子供たちの教育法を構築することは、結果的に間違った対策を取ることにつながるのだと考えています。

2.高校での目標は話すことではなく基礎を身に着けること
どの科目も高校を出た知識レベルでは十分ではありません。大学に進んで、さらにその知識に磨きをかけることで、「その分野の専門家」として食っていけるようになります。
高校で学ぶべきはその科目の基礎なので、高校を出たレベルで何かができるようなることを期待することの方が間違っています。
英語についても、将来、英語を話す必要が生じたときに、基礎となる知識があればいいので、大学の入学試験では英語の基礎を問う試験を実施すればいいということになります。
私も英語の技術書を読んだり、共同研究先との契約書のチェックを行うときに高校で勉強した文法が役に立っています。英語が話せないからと言って、学校の英語の授業が無駄だった訳ではありません。
もともと、学校の授業は一人の先生が40人の生徒に授業することを前提としているので、文法のような知識を教えるには向いていますが、会話のように1対1でやらなければならないことは難しいので、それは卒業してから自費でやると割り切るべきです。
高校までは文法や構文のような英語の基礎を学んで、将来、英語を話す必要が生じたときに個人レッスンに通って会話を勉強すれば、英語はある程度は話せるようになるので、高校までの勉強は無駄ではありません。
英語が話せるようになることを高校英語の目標にしてしまうと、個人レッスンを雇える財力のある家庭が有利になってしまって、親の財力が試験結果に大きく影響することになります。

3.文法力の重要性は増している
メールやSNSで英語を書く機会が増えると、文法の重要性が増します。話し言葉であれば、文法が滅茶苦茶でも「何かを伝えたい」ということが伝われば、話を聞いてもらえるかもしれませんが、メールの文章で初歩的な文法の誤りがあれば、メールの書き手はバカだと思われて、そのメールを真剣に読もうとは思ってもらえません。
私も一度も会ったことのない海外の提携先(非英語圏)とメールのやり取りをすることがありますが、文法的に無茶苦茶なメールが届くと、要注意人物として慎重に対応します。

複雑なことをすれば、高度なことをやっているように見える
なぜ文部科学省がこのような批判を受けるような試験を導入しようと考えたのでしょうか? 私は自分の業務経験から以下のように考えています。
会社の業務のなかで、一見、簡単そうに見えて、なかなか解決策が見つからない問題に直面することがあります。そのような状況で、事情をよく分かっていない幹部から「何でこんな簡単な問題が解決できないんだ! そんな方法をやっているからダメなんだ、もっと違う方法があるだろう。しっかりやれ!」という無責任なことを言われたときにどのように対応するのかというと、「複雑な方法でやる」、「権威のある人が言っている方法でやる」ということがあります。
例えば、「この問題を解決することに効果があるとされる◆◆理論にもとづいた◇◇解析法によって、データを解析し、最適な解決策を見出すべく鋭意努力中であります」とか、「この分野の第一人者であるかの※※博士が提唱されている▲▽▲▽法で対応すべく、分析方法の習得に当たっております。詳細はお時間のあるときにじっくり説明させて頂きます」とか言ってやると、その無責任なその幹部を黙らせることはできます。なぜなら、「複雑なことをやると、高度なことをやっているように見えるから」です。(もちろん、問題自体は解決しません)
今回の外部の英語試験活用も、一向に向上しない英語力に対する無責任な批判に対して、文部科学省が責任を回避するために、「複雑な試験」と「権威ある試験」を使ったのだと思います。たとえ、英語力が向上しなくても、「複雑で権威のある試験を導入したのだから、やることはやった」と言い逃れできます。
文部科学省は、「英語は日本人にとって難易度が高いから習得することが難しい」と分かっていても「難しいからできない」とは言えないので、「問題は解決しないが、批判をかわせる方法」を採用したことになります。
(今回の文部科学省の対応は、末端サラリーマンの私とやっていることが同じなので、親近感を覚えた次第です・・・)
結局、文部科学省は自分たちへの批判をかわすために受験生に余計な負担を強いたことになるのですが、悪いのは文部科学省ではなく、問題の本質を理解せずに無責任な批判をする人たちです。

対応策
英語でこのような問題が生じるのは、英語教育に対するニーズが大きく二つに分かれるからだと思います。将来、知的生産系の仕事をするために大学にこうと考えている高校生にとっては文法の授業は意味があるかもしれませんが、高卒で肉体労働や国内土着産業の仕事につこうと思っている高校生にとって文法の授業は苦痛でしかありません。彼らにとって重要なことは、「新婚旅行で海外に行ったときに、パートナーの前で恥をかかないこと」です。
人数としては、知的生産系よりも、国内土着産業系で働く人の方が圧倒的に多く、彼らも有権者として英語教育に意見を言う権利はあるので、自分の役に立たない大学受験に向けた文法中心の英語教育に否定的な意見を言うのは当然です。政治家として有権者の多数を占める彼らの票が欲しければ、彼らの意見に迎合する必要があります。
高校教育に文系と理系の区分けがあるのだから、英語教育も大学受験用と海外旅行用に分けてはどうでしょうか? 大学に行くつもりのない人たちには、海外旅行をしたときにホテルやレストランでのやり取りに特化した会話の勉強をしてもらって、大学受験の簡素で公平な制度を混乱させるような余計な意見を言わせないことが重要です。

英語ができるようになる人の特徴
私の周りの高学歴な人の大部分は英語は話せないのですが、日本で普通に育った人で英語を完璧に話せる人もそれなりにはいます。私の観察では彼らには次の二つの特徴があります。

①記憶力がいい
英語を習得するためには、膨大な単語を覚える必要があるので、記憶力がいいほど有利です。私の知っている人は、「英語の単語なんか、一回見れば覚えられるだろう」と真顔で言います。その人は携帯が出始めた頃も電話帳機能を使っていませんでした。なぜなら、電話番号も一回見れば覚えられるからです。

②リスニング力が高い
語学留学をしているときのルームメイトはリスニング力が高く、部屋でテレビを見ていると、「こういうシチュエーションでは、こういう表現を使うのか」とか呟いていました。私には英語の発音は雑音にしか聞こえないので、英語のテレビ番組を何時間見ても英語の勉強にならないのですが、リスニング力が高いと英語のテレビ番組や映画を見るだけで英語の勉強になります。研修前のTOEICのテストの点数は私の方が高かったのですが、帰国時のテストの結果では大幅に水を開けられてしまいました。

井上 孝之

プロフィール
リスニングが苦手だったころは、TOEICのリスニングで400点ぐらいとれれば、ある程度、聞き取れるようになると思っていましたのが、自己最高点の435点取っても、全く何も聞き取れないということが分かって驚愕している技術系サラリーマン。



2019年10月19日土曜日

防災にかけるコストは多すぎても、少なすぎてもいけない

今回の台風19号の被害を受けて、かつての長野県の田中康夫知事や民主党政権が批判されていますが、それは妥当でしょうか?

私の技術的な専門分野に「防災」が含まれているので、防災にかけるコストを考えるうえで参考になる「総費用最小化の原理」という考え方を紹介します。

この考え方は下記のグラフに集約されます。


横軸を「構造物の防災性能」とします。川の堤防や津波対策の防潮堤の高さ、ダムの貯水量、地震対策の耐震強度のように大きくするほど防災性能が高くなるものがこれに該当し、グラフの右に行くほど、防災性能は高くなります。

縦軸は防災施設の建設費用または災害時の被害額の金額とします。

青線は防災施設の建設コストを表し、コストをかけるほど防災性能は高くなるので、左下から右上に伸びるグラフとなります。

また、緑線は災害が発生したときに生じる被害額(厳密には、発生する被害額×災害が発生する確率=災害によって生じる被害額の期待値)を表し、防災性能が高いほど発生する被害は小さくなるので、左上から右下に伸びるグラフとなります。

結局、構造物の所有者(堤防のような公共物の場合はその地域の住民)は、防災設備の建設時に建設コスト(青線)を負担し、災害時には復旧費用(緑線)を負担する(あるいは災害の被害を被る)ことになるので、この合計値(赤線)が構造物の所有者が構造物のライフタイムで負担するコストの総額ということになります。

赤線を見れば分かる通り、このグラフは下に凸であり、このグラフの最小値のところが「経済合理性から考えた最適な(ちょうどいい)防災性能」ということになります。

防災性能がこの最適値よりも小さければ災害時に過大が被害が生じ、大きければ防災施設への過大投資(無駄遣い)ということになります。

もし、この「最適な防災性能」を超える災害が起これば、その施設は「壊れる」ことになりますが、無限に頑丈な施設を造ることはできないし、また、防災対策にだけお金を使うわけではないので、このレベルの性能で割り切る以外にはありません。

このグラフは、あくまでも概念を示したものなので、この最適値は方程式を解けば出てくるような単純なものではありません。時間の経過とともに価値観が変化して、「何を大切だと思うのか」が変化すれば、この最適値も変化します。また、災害によって失われる人の命も金額に換算してグラフに反映させることになります。

このグラフから読み取れることは単純で、「防災性能には最適値がある」ということです。従って、最も重要なことはこの最適値がどのくらいなのかを見極めることが防災対策の核心部分となります。この最適値を考えない人に防災を語る資格はありません。

防災施設について、災害が起こる前は「無駄遣い」と批判し、災害が起こった後は「防災意識が低かった」との批判が生じるのは、「最適な防災性能をどのように設定するのか」という思考が欠けていたからです。

今回のように災害が起こった直後には、極端に高い防災性を求め、記憶が薄れるに従って、防災性能は低くていいというように感情的に考えてしまうことも、防災にかけるコストとその結果として得られる防災効果のバランスを考えていないためです。

では、どのように「最適な防災性能」を決めればいいのでしょうか? それには、専門家が基本的な計画とコスト試算を示し、それをベースとして、関係者が「それで十分なのか、足りない事項は何か、それを実現するためにはあとどのくらいのコストがかかるのか、本当に守りたいものは何か、災害時に失われてしまっていいものは何か」等を洗い出して、計画とコスト試算を繰り返して、関係者の多数が納得できる計画にたどり着く以外にないと考えています。

洪水対策を例に考えるなら、コストをかけて堤防を高くするのか、堤防の高さはそこそこにして、洪水浸水想定区の人たちには引越支援をするのか、避難所を作って人命だけは守れるようにして、物的被害は保険金で買い替えるのか等の選択肢について、コスト試算をして、コストと効果のバランスを考えながら、関係者が納得できる計画を模索することになると思います。「最適な防災性能」とは、堤防の高さだけではなく、水が堤防を越えたときの二次的な対策も含めて検討されるべきです。

かつての自民党政権は、「雇用を生み出す」という目的のために防災性能を過剰に高くしていたと私は考えています。このことが「無駄遣いをしているのではないか」との疑念を生み出し、長野県の田中康夫知事や民主党政権を生み出したのだと考えています。

このように、「過剰に高い防災性能を設定してしまうと、揺り戻しによって防災施設への過少投資に陥り、かえって危険な状態を作り出してしまう」ということこそが今回の台風被害の最大の教訓だったのではないでしょうか?

今頃になって、田中元知事の脱ダム宣言や民主党の公共工事削減を批判している人たちは、あの当時、この最適な防災レベルについてどのような考えを持っているのでしょうか?

私は、長野県の田中康夫知事や民主党政権の誕生は最適な防災性能のレベルを考えるうえで不可避なプロセスだったと考えています。このように過剰投資と過少投資を繰り返しながら、最適値に収束していくことになると考えています。


※参考サイト
http://www.gogh.nuac.nagoya-u.ac.jp/~laboM/yasu/2003_Sympo.pdf
(6ページ目)

井上 孝之

プロフィール
長野県に田中知事が脱ダム宣言を行ってことも民主党が公共工事の見直しを行ったときも支持していたし、そのことを後悔していない技術系サラリーマン

2019年10月5日土曜日

部落問題の思い出

私は関西のとある都市出身で、私が通っていた中学校の学区内には部落地区がありました。そこで経験したことを部落問題を知らない人に話すとみんな興味深く聞いてくれます。
なお、噂話として聞いたことは、『「・・・」を言われています』という形で書きます。その噂が本当かどうかは確認できないのですが、私の出身都市でそのような噂が公然と話されていること自体は事実です。
また、ここで書かれているのは私が中学生だった約40年前の話なので、今がどうなっているのは知りません。

私の通った中学校の学区は二つの小学校の学区が合わさったもので、私の小学校の学区には部落地区はありませんでした。従って、中学校で部落問題を初体験することになります。

中学校の入学式の日に隣に座った子と仲良くなりました。その子が入学式が終わったあとに、「職員室に用があるから一緒に行こう」と言うのでついて行くと、その子は文房具セット(ノートやフォルダ、筆記具が入っていて、30cm×20cm×10cmぐらいのサイズだったと記憶しています)を受け取りました。そのとき、その子はなぜそんなものを受け取って、私は受け取ることができなかったのかを理解することはできませんでした。この子は部落の子でした。

その後、人権の授業でその件についての説明がありました。要するに、かつて部落の子供たちは教育を受ける権利を奪われて、その結果として低賃金の仕事にしか就けず、その子供たちも教育を受けられないという悪循環に陥っていたので、その悪循環を打ち切るために、他の子どもたちのよりも手厚く、税金で教育をサポートしているのだと。彼らは一般の生徒であれば有償の体操服や音楽で使う縦笛等もタダで支給されます。修学旅行もタダで行けます。

ちなみに、生徒は修学旅行に向けて、月々数千円を積み立てるための封筒が配られるのですが、修学旅行の代金を積み立てる必要のない彼らはその封筒の使い方が異なります。彼らはその封筒に「鉛筆がほしい」、「ノートがほしい」と書けば、税金で購入されたものが支給されます。クラスの担任の先生がホームルームの時間に持ってきて、クラスのみんなが見ている前で堂々と渡します。私も最初は違和感を感じましたが、そのうち慣れてしまいました。

さて、「部落の子」ですが、誰が「部落の子」かをクラス全員が知っています。それは前述の人権の授業のときにこの子達がカミングアウトさせられて、「私たちが優遇を受けているのは、昔、差別があって、今でもその差別が残っているからで、私たちも早くそのような差別が完全になくなってほしいです」というような意見を言わされているからです。学校での有償のものの扱いは明らかに他の子と異なり、家に遊びに行くと「行けばそれと分かる地区」であり、差別がない社会を目指しているのだからカミングアウトしても問題ないということで、「部落の子」であることを隠す感じはありませんでした。

私の学校の場合は、「部落の子」は各クラスに5~6人くらいいたと思います。このぐらいいると、頭のいい奴もいれば悪い奴もいるし、運動神経のいい奴もいれば悪い奴もいるし、美人もいればブスもいて、何らかの傾向があるわけではないので、「部落の子」も普通の人間と認識されていて、クラスの中での差別はなかったとも思います。私もまったく普通に付き合っていました。

私の通った中学校は学区内に部落地区を抱えているので、予算が潤沢に支給され、冷房が導入されたのも、少人数教育が実施されたのも、市で最も早い学校の一つであり、様々な設備が充実していたのは事実であったので、私自身もまた部落問題で恩恵を受けた人間と言えるかもしれません。

彼らの住んでいるところですが、市が建てた10階建てぐらいの集合住宅に住んでいます。家賃は格安と言われています。通常、マンションというのは売られるときは商品なので、何らかのチャラチャラしたところがありあすが、彼らの住んでいる集合住宅は最初からある特定の人たちが住むことを前提に建てらえていて、外見的に商品性が全く感じられないので、見れば、「それ」と分かります。結果的にその建物が「その地域」であることの目印になっています。

路上駐車が多いこともその地域の特徴でした。近くに警察署があっても取り締まらないためだと言われています。

彼らの就職先ですが、市の職員の募集に優先枠があるので、就職先には困らないと言われています。これについは噂話として聞いて、本当かどうかを確かめるすべはないのですが、私の同級生に「俺は勉強ができなくても就職先には困らない」と言っていた奴がいたことは事実です。

私の同級生にすごく頭のいい奴がいました。彼が今、どこで何をしているのかは分かりませんが、多分、それなりの大学を出て、それなりの企業に就職していて、「部落とは全く関係がない」という感じで生きているのだと想像しています。私が想像するに、彼のような頭のいい人は「その地域」をさっさと出て、別の場所で別の人生を送るようにする一方で、別の人生を切り開けない人たちは「部落の人間」という特権にしがみついて、「その地域」に残って市の職員にでもなっているのではないかと考えています。

最後に「井上」という苗字ですが、その地域に多い苗字でした。私自身は嫌な思いをしたことはありませんが、私の姉は部落の人間から「お前も井上なら、部落の人間ということにしておけば、学校にかかる費用は全部タダになるぜ」というようなことを言われて、激怒して部落差別主義者になってしまいました。


井上 孝之

プロフィール
差別は良くないけど、彼ら受けている優遇もまた過剰であると思っている技術系サラリーマン



「国葬」は「反対運動マニア」の祭典となる

私は「反対運動マニア」というカテゴリーに分類すべき人たちが世の中に一定数いて、政策の実行に当たってはその行動パターンを把握して対策を講じる必要があると考えていますが、そのような観点で論じている人は見当たりません。 確かに、「これは『反対運動マニア』対策のためにやってます」と...