2019年10月19日土曜日

防災にかけるコストは多すぎても、少なすぎてもいけない

今回の台風19号の被害を受けて、かつての長野県の田中康夫知事や民主党政権が批判されていますが、それは妥当でしょうか?

私の技術的な専門分野に「防災」が含まれているので、防災にかけるコストを考えるうえで参考になる「総費用最小化の原理」という考え方を紹介します。

この考え方は下記のグラフに集約されます。


横軸を「構造物の防災性能」とします。川の堤防や津波対策の防潮堤の高さ、ダムの貯水量、地震対策の耐震強度のように大きくするほど防災性能が高くなるものがこれに該当し、グラフの右に行くほど、防災性能は高くなります。

縦軸は防災施設の建設費用または災害時の被害額の金額とします。

青線は防災施設の建設コストを表し、コストをかけるほど防災性能は高くなるので、左下から右上に伸びるグラフとなります。

また、緑線は災害が発生したときに生じる被害額(厳密には、発生する被害額×災害が発生する確率=災害によって生じる被害額の期待値)を表し、防災性能が高いほど発生する被害は小さくなるので、左上から右下に伸びるグラフとなります。

結局、構造物の所有者(堤防のような公共物の場合はその地域の住民)は、防災設備の建設時に建設コスト(青線)を負担し、災害時には復旧費用(緑線)を負担する(あるいは災害の被害を被る)ことになるので、この合計値(赤線)が構造物の所有者が構造物のライフタイムで負担するコストの総額ということになります。

赤線を見れば分かる通り、このグラフは下に凸であり、このグラフの最小値のところが「経済合理性から考えた最適な(ちょうどいい)防災性能」ということになります。

防災性能がこの最適値よりも小さければ災害時に過大が被害が生じ、大きければ防災施設への過大投資(無駄遣い)ということになります。

もし、この「最適な防災性能」を超える災害が起これば、その施設は「壊れる」ことになりますが、無限に頑丈な施設を造ることはできないし、また、防災対策にだけお金を使うわけではないので、このレベルの性能で割り切る以外にはありません。

このグラフは、あくまでも概念を示したものなので、この最適値は方程式を解けば出てくるような単純なものではありません。時間の経過とともに価値観が変化して、「何を大切だと思うのか」が変化すれば、この最適値も変化します。また、災害によって失われる人の命も金額に換算してグラフに反映させることになります。

このグラフから読み取れることは単純で、「防災性能には最適値がある」ということです。従って、最も重要なことはこの最適値がどのくらいなのかを見極めることが防災対策の核心部分となります。この最適値を考えない人に防災を語る資格はありません。

防災施設について、災害が起こる前は「無駄遣い」と批判し、災害が起こった後は「防災意識が低かった」との批判が生じるのは、「最適な防災性能をどのように設定するのか」という思考が欠けていたからです。

今回のように災害が起こった直後には、極端に高い防災性を求め、記憶が薄れるに従って、防災性能は低くていいというように感情的に考えてしまうことも、防災にかけるコストとその結果として得られる防災効果のバランスを考えていないためです。

では、どのように「最適な防災性能」を決めればいいのでしょうか? それには、専門家が基本的な計画とコスト試算を示し、それをベースとして、関係者が「それで十分なのか、足りない事項は何か、それを実現するためにはあとどのくらいのコストがかかるのか、本当に守りたいものは何か、災害時に失われてしまっていいものは何か」等を洗い出して、計画とコスト試算を繰り返して、関係者の多数が納得できる計画にたどり着く以外にないと考えています。

洪水対策を例に考えるなら、コストをかけて堤防を高くするのか、堤防の高さはそこそこにして、洪水浸水想定区の人たちには引越支援をするのか、避難所を作って人命だけは守れるようにして、物的被害は保険金で買い替えるのか等の選択肢について、コスト試算をして、コストと効果のバランスを考えながら、関係者が納得できる計画を模索することになると思います。「最適な防災性能」とは、堤防の高さだけではなく、水が堤防を越えたときの二次的な対策も含めて検討されるべきです。

かつての自民党政権は、「雇用を生み出す」という目的のために防災性能を過剰に高くしていたと私は考えています。このことが「無駄遣いをしているのではないか」との疑念を生み出し、長野県の田中康夫知事や民主党政権を生み出したのだと考えています。

このように、「過剰に高い防災性能を設定してしまうと、揺り戻しによって防災施設への過少投資に陥り、かえって危険な状態を作り出してしまう」ということこそが今回の台風被害の最大の教訓だったのではないでしょうか?

今頃になって、田中元知事の脱ダム宣言や民主党の公共工事削減を批判している人たちは、あの当時、この最適な防災レベルについてどのような考えを持っているのでしょうか?

私は、長野県の田中康夫知事や民主党政権の誕生は最適な防災性能のレベルを考えるうえで不可避なプロセスだったと考えています。このように過剰投資と過少投資を繰り返しながら、最適値に収束していくことになると考えています。


※参考サイト
http://www.gogh.nuac.nagoya-u.ac.jp/~laboM/yasu/2003_Sympo.pdf
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井上 孝之

プロフィール
長野県に田中知事が脱ダム宣言を行ってことも民主党が公共工事の見直しを行ったときも支持していたし、そのことを後悔していない技術系サラリーマン

2019年10月5日土曜日

部落問題の思い出

私は関西のとある都市出身で、私が通っていた中学校の学区内には部落地区がありました。そこで経験したことを部落問題を知らない人に話すとみんな興味深く聞いてくれます。
なお、噂話として聞いたことは、『「・・・」を言われています』という形で書きます。その噂が本当かどうかは確認できないのですが、私の出身都市でそのような噂が公然と話されていること自体は事実です。
また、ここで書かれているのは私が中学生だった約40年前の話なので、今がどうなっているのは知りません。

私の通った中学校の学区は二つの小学校の学区が合わさったもので、私の小学校の学区には部落地区はありませんでした。従って、中学校で部落問題を初体験することになります。

中学校の入学式の日に隣に座った子と仲良くなりました。その子が入学式が終わったあとに、「職員室に用があるから一緒に行こう」と言うのでついて行くと、その子は文房具セット(ノートやフォルダ、筆記具が入っていて、30cm×20cm×10cmぐらいのサイズだったと記憶しています)を受け取りました。そのとき、その子はなぜそんなものを受け取って、私は受け取ることができなかったのかを理解することはできませんでした。この子は部落の子でした。

その後、人権の授業でその件についての説明がありました。要するに、かつて部落の子供たちは教育を受ける権利を奪われて、その結果として低賃金の仕事にしか就けず、その子供たちも教育を受けられないという悪循環に陥っていたので、その悪循環を打ち切るために、他の子どもたちのよりも手厚く、税金で教育をサポートしているのだと。彼らは一般の生徒であれば有償の体操服や音楽で使う縦笛等もタダで支給されます。修学旅行もタダで行けます。

ちなみに、生徒は修学旅行に向けて、月々数千円を積み立てるための封筒が配られるのですが、修学旅行の代金を積み立てる必要のない彼らはその封筒の使い方が異なります。彼らはその封筒に「鉛筆がほしい」、「ノートがほしい」と書けば、税金で購入されたものが支給されます。クラスの担任の先生がホームルームの時間に持ってきて、クラスのみんなが見ている前で堂々と渡します。私も最初は違和感を感じましたが、そのうち慣れてしまいました。

さて、「部落の子」ですが、誰が「部落の子」かをクラス全員が知っています。それは前述の人権の授業のときにこの子達がカミングアウトさせられて、「私たちが優遇を受けているのは、昔、差別があって、今でもその差別が残っているからで、私たちも早くそのような差別が完全になくなってほしいです」というような意見を言わされているからです。学校での有償のものの扱いは明らかに他の子と異なり、家に遊びに行くと「行けばそれと分かる地区」であり、差別がない社会を目指しているのだからカミングアウトしても問題ないということで、「部落の子」であることを隠す感じはありませんでした。

私の学校の場合は、「部落の子」は各クラスに5~6人くらいいたと思います。このぐらいいると、頭のいい奴もいれば悪い奴もいるし、運動神経のいい奴もいれば悪い奴もいるし、美人もいればブスもいて、何らかの傾向があるわけではないので、「部落の子」も普通の人間と認識されていて、クラスの中での差別はなかったとも思います。私もまったく普通に付き合っていました。

私の通った中学校は学区内に部落地区を抱えているので、予算が潤沢に支給され、冷房が導入されたのも、少人数教育が実施されたのも、市で最も早い学校の一つであり、様々な設備が充実していたのは事実であったので、私自身もまた部落問題で恩恵を受けた人間と言えるかもしれません。

彼らの住んでいるところですが、市が建てた10階建てぐらいの集合住宅に住んでいます。家賃は格安と言われています。通常、マンションというのは売られるときは商品なので、何らかのチャラチャラしたところがありあすが、彼らの住んでいる集合住宅は最初からある特定の人たちが住むことを前提に建てらえていて、外見的に商品性が全く感じられないので、見れば、「それ」と分かります。結果的にその建物が「その地域」であることの目印になっています。

路上駐車が多いこともその地域の特徴でした。近くに警察署があっても取り締まらないためだと言われています。

彼らの就職先ですが、市の職員の募集に優先枠があるので、就職先には困らないと言われています。これについは噂話として聞いて、本当かどうかを確かめるすべはないのですが、私の同級生に「俺は勉強ができなくても就職先には困らない」と言っていた奴がいたことは事実です。

私の同級生にすごく頭のいい奴がいました。彼が今、どこで何をしているのかは分かりませんが、多分、それなりの大学を出て、それなりの企業に就職していて、「部落とは全く関係がない」という感じで生きているのだと想像しています。私が想像するに、彼のような頭のいい人は「その地域」をさっさと出て、別の場所で別の人生を送るようにする一方で、別の人生を切り開けない人たちは「部落の人間」という特権にしがみついて、「その地域」に残って市の職員にでもなっているのではないかと考えています。

最後に「井上」という苗字ですが、その地域に多い苗字でした。私自身は嫌な思いをしたことはありませんが、私の姉は部落の人間から「お前も井上なら、部落の人間ということにしておけば、学校にかかる費用は全部タダになるぜ」というようなことを言われて、激怒して部落差別主義者になってしまいました。


井上 孝之

プロフィール
差別は良くないけど、彼ら受けている優遇もまた過剰であると思っている技術系サラリーマン



「国葬」は「反対運動マニア」の祭典となる

私は「反対運動マニア」というカテゴリーに分類すべき人たちが世の中に一定数いて、政策の実行に当たってはその行動パターンを把握して対策を講じる必要があると考えていますが、そのような観点で論じている人は見当たりません。 確かに、「これは『反対運動マニア』対策のためにやってます」と...