2020年6月12日金曜日

新型コロナウィルス対策で建設的な議論ができないのはなぜか?(その2)

(その1)からの続きです。

◆ネットも議論を収束させるエンジンにならなかった
ネット上では一部の方がかなり的確な分析や提言を行っていたと思いますが、その分析や提言にもとづいて現実社会の対策が方針づけられることはありませんでした。なぜでしょうか?

ネットにはまだ既存の大手メディアほどの影響力がないということもあるかもしれませんが、それ以外の理由もあると思います。

ネットで意見を発信する人は、自説の正しさを主張したり、意見の異なる人への攻撃したりすることに注力してしまって、社会をよくするために合意形成に向けて努力するという人は現れなかったように思われます。

堀江貴文さんもYouTubeで傾聴に値する意見を発信されていましたが、自分の意見を理解しない人をバカ呼ばわりすることで、彼の意見を支持する人を減らしてしまったように思われます。

ネットでのインフルエンサーの影響力はネットの中だけで、現実世界の政治に影響を与えるのは、情報を垂れ流すテレビを見ている老人であるということでしょうか?

ネットというのは、検索をかけて自分から情報を取りに行く人にしか情報をもたらさないので、社会の多数の人が「テレビで垂れ流される情報だけで十分」と考えるのであれば、社会全体での合意形成を図る手段としては限界があるのかもしれません。

◆科学者が役割を果たさなかった
私は当初、「科学者は科学的に正しい知見を発信するだけでなく、ワイドショーで垂れ流される間違った情報をつぶす役割も果たすべきである。間違った情報が社会に広がってしまえば、その情報にもとづいて政策が決定されてしまうおそれがある」と考えていましたが、最近は考えが変わってきました。

それはあまりにも頓珍漢な意見を発信する自称科学者が多いためです。科学者はワイドショーで垂れ流される間違った情報をつぶす前に、エセ科学者のいい加減な発信をつぶすことに労力を投入しなければならないというのが、科学界の現実かもしれません。

今回のコロナ禍で明らかになったことは、「日本の科学者は今まで思っていたい以上にバカが多い」ということではないでしょうか? 私も理系人間として恥ずかしいです。

◆経済への影響を考慮した感染症対策が検討されていなかった
感染症には、エボラ出血熱のように経済損失を度外視してでも封じ込めなければならないものから、今回の新型コロナのように経済損失を抑えながら共存しなければならないものまであるはずです。

共存型の感染症の対策については、感染を抑える効果のほかに、経済活動への影響という観点からも有効性を評価する必要があったはずですが、そのような観点では深くは検討されていなかったようです。

この点については、ようやくなし崩し的に経済活動が始まって考えざるを得なくなったので、次の冬は感染爆発を起こさない程度に押さえ込みながら経済活動を続けることができるのではないかと考えています。

◆「許容できる被害」に関する議論がなかった
今回の新型コロナはもともと被害者数をゼロにすることはできないので、例年のインフルエンザの死者数程度は許容するというような社会的合意を作るような議論が必要があったのではないかと考えています。

「許容できる被害」についての議論を行っておかなければ、ゼロリスク信仰に従って、「許容できる被害」とは「ゼロ(あるいは、可能な限りゼロに近く)」ということが目標になってしまいます。そして、経済やその他のあらゆるものを犠牲にして、目標の「ゼロ」を目指すことになります。

「許容できる被害」に関する議論は次の冬にどのくらい経済活動に制約を与えるのかと絡んでくるので今からでも遅くないと考えています。


◆(番外編)私の働き方について
私自身にとっての今回のコロナ禍の最大の成果は、会社でテレビ会議が普及したことです。私のオフィスは都心の本社から電車で1時間ぐらいのところにあるのですが、会議のたびに本社に呼び出されます。30分で終わる会議にも呼び出されて、往復2時間かけて本社まで行っていました。

「テレビ会議で参加させてほしい」とお願いしても、「やったことがない」「やり方が分からない」「めんどくさい」「あなた一人のためにそんな手間はかけられない」「会議はフェイストゥーフェイスでなければ本当の意思疎通はできない」とか言って断られていました。

私の勤めている会社は技術力が高いことが売りなのですが、技術力の高い会社の社員が新しい技術を使いこなせるというわけではないのです。あと、若い人からも断られます。若い人なら新しい技術を使いこなせるということもありません。

新型コロナのおかげで、ようやく会議はテレビ会議が当たり前になりました。あれほど頑なに断っていた人たちも、今では「テレビ会議って使ってみれば便利だね」とか言っています。

次にハンコについてですが、私の部署の幹部たちはハンコを押すためにコロナ禍の最中も数日に一度は出社していました。また、とある公的な研究期間との共同研究契約書では、とりあえず自分のところのハンコを押した契約書をスキャンしてPDFファイルとしたものを取り交わすことで仮契約書として、コロナが収まった後に紙に調印した文書を取り交わすという二度手間方式とすることで決着しました。そうまでしてでも紙にハンコをしたものが必要ということで、ハンコが撲滅される日はかなり遠いようです。

井上孝之

プロフィール
私の勤めている会社は長期プロジェクトがメインなので、現状では海外のプロジェクトは止まっているところもありますが、国内案件は若干の遅れが出た程度の影響しか受けておらず、夏のボーナスも予定通り出るようです。しかも、私自身はテレワークのおかげで仕事が楽になっているという幸運を噛みしめている技術系サラリーマン

1 件のコメント:

  1. エントリ内に記されたゼロリスクについてですが、理解はできます。ただ、なかなか諸手を挙げて支持するには躊躇を覚える、というのが正直な処です。違和感を抱いている点を幾つか挙げます。このモヤっとした部分を晴らして頂けるとありがたいです。

    1)"20年、30年前にはゼロリスクなる語を今ほど耳にした記憶がないなぁ、というのがそもそもです。よく耳にするようになったのは福島原発の事故以降で、原発の再稼働を巡る議論のなかで頻出するようになったという認識です。で、”ゼロリスク”、”原発”というキーワードを2011年03月10日までの間Googleで検索したことがあります。その結果、事故以前に政府、電力事業者からの、原発に対し”ゼロリスクを求めるな”的な文言は全く見出されませんでした。事故以前は”日本の原発は安全です”といった断定的な姿勢と、”そんな(極小確率)のリスクなど考えていたら原発なんて作れなくなる”といった主張が大勢だったようです。その後、事故が起こって、今日”ゼロリスク信仰の否定”が叫ばれるようになったと。

    つまり、大きな被害、損失が発生した後、それでも尚、原発再稼働とかコロナ禍の中での経済活動再開にあたっての、免罪符というか方便?言い訳的に”ゼロリスク信仰の否定”を利用している印象が否めない、ということです。これが事故や被害前に、適切かどうかはさておき、何らかの科学的手法で許容リスクを見積もって対策を講じていたのであれば、たとえその策が功を奏さなかったとしても一定程度理解できますが...

    コロナ禍について言えば、確か1月中旬から2月上旬あたり、中国で騒がれだした頃、日本の専門家と称される医師?が”ヒトーヒト感染はない”とか、”恐れるほどのものではない”といったようなコメントを出していました。なんだか、事故前の”原発は絶対安全です”にも通底した姿勢だなぁと。これが、そういった危機的事態に陥る前に、リスクを予測し許容し得る被害を見積もっていたのであれば印象はもう少し違っていたと思います。

    ところで、例えば安全工学のような科学的、技術的分野で”ゼロリスク信仰の否定”、”リスク許容度”とか”許容度の算定手法”などでどこまで合理的な知見が確立されているのでしょうか。全く自分の知らない分野ですが、安全工学のテキストに”ゼロリスク信仰の否定”について記述があるかどうか、興味のある処です。

    2)以降は機会もみてコメントします。

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