2019年11月9日土曜日

英語民間試験問題:「日本人にとって英語は難しい」と素直に認めよう!

私は英語のテストに苦労させられたので、英語のテストや学習法についてはいろいろ思うところがあります。

私は文法や構文が得意だったので、受験生のときは得意科目だったのですが、会社に入ってからTOEICのテストを受けさせられるようになると、リスニングが苦手で英文を読むのが遅かったので、点数がなかなか上がらず相当に苦労させられました。
TOEICの対策本を買ってTOEICの点数を上げることに特化した勉強をしたり、会社のお金で短期の語学留学させられたり、40代になってから一念発起して英語に再挑戦したりと英語についてはいろいろ考える機会があったので、それをまとめたいと思います。
日本の英語教育を考えるうえで確認しておく事項は下記の3点であるように思われます。

1.英語は日本人にとって難易度が高い
日本人が英語を話せないのは、英語が日本語の語彙、文法、発音の点であまりにも違いすぎて、日本人にとって難易度が高いからであり、学校教育における英語学習法が悪いわけでないことを改めて確認する必要があります。
「難しいから克服できない」というのは敗北主義のようですが、挑戦する課題の難易度を正しく評価することは課題克服の第一歩です。
私も一応はその業界のトップクラスの会社に勤めているので、同僚はみんな高学歴で、東大、京大、早稲田、慶応・・・といますが、彼らのほとんどはペーパーテストとしての英語の試験では高い点数をとることができても、英語は話せないので、「英語を話せるようになる」ということには相当に高いハードルがあると認識すべきです。
世の中には、英語の習得が得意ですぐに話せるようになる人もいますが、その人は単に才能に恵まれていただけで、その人と同じ勉強をすれば誰でも英語を話せるようになるわけではありません。これは数学の問題で、一度説明されれば理解できる人間と死ぬまで理解できない人間に分かれることと同じです。私も英語の得意な人からいろいろ勉強法についてアドバイスをもらいましたが、才能があるからできる勉強法が役に立ったことはほとんどありません。
「文部科学省がもっといい方法で教育すれば、きっと自分も話せるようになるはず」というのは幻想で、そんな方法は存在しないと認識することがこの問題を考えるスタート地点だと考えています。その点を確認できないと、「きっといい方法があるはず」と考えて、存在しない解決策を探し続けることになります。今回の英語の外部テストもその一環で、「テストの方法を変えれば、子供たちの英語力が向上するかもしれない」と安易に考えて、子供たちを実験台にしただけです。
日本人の英語力が向上しないことは、政府や文部科学省を批判したい人にとっての「鉄板ネタ」であって、そういう人たちの目的は「子供たちの英語力を向上させること」ではなく、「政府を批判すること」なので、そういう批判を真に受けて、子供たちの教育法を構築することは、結果的に間違った対策を取ることにつながるのだと考えています。

2.高校での目標は話すことではなく基礎を身に着けること
どの科目も高校を出た知識レベルでは十分ではありません。大学に進んで、さらにその知識に磨きをかけることで、「その分野の専門家」として食っていけるようになります。
高校で学ぶべきはその科目の基礎なので、高校を出たレベルで何かができるようなることを期待することの方が間違っています。
英語についても、将来、英語を話す必要が生じたときに、基礎となる知識があればいいので、大学の入学試験では英語の基礎を問う試験を実施すればいいということになります。
私も英語の技術書を読んだり、共同研究先との契約書のチェックを行うときに高校で勉強した文法が役に立っています。英語が話せないからと言って、学校の英語の授業が無駄だった訳ではありません。
もともと、学校の授業は一人の先生が40人の生徒に授業することを前提としているので、文法のような知識を教えるには向いていますが、会話のように1対1でやらなければならないことは難しいので、それは卒業してから自費でやると割り切るべきです。
高校までは文法や構文のような英語の基礎を学んで、将来、英語を話す必要が生じたときに個人レッスンに通って会話を勉強すれば、英語はある程度は話せるようになるので、高校までの勉強は無駄ではありません。
英語が話せるようになることを高校英語の目標にしてしまうと、個人レッスンを雇える財力のある家庭が有利になってしまって、親の財力が試験結果に大きく影響することになります。

3.文法力の重要性は増している
メールやSNSで英語を書く機会が増えると、文法の重要性が増します。話し言葉であれば、文法が滅茶苦茶でも「何かを伝えたい」ということが伝われば、話を聞いてもらえるかもしれませんが、メールの文章で初歩的な文法の誤りがあれば、メールの書き手はバカだと思われて、そのメールを真剣に読もうとは思ってもらえません。
私も一度も会ったことのない海外の提携先(非英語圏)とメールのやり取りをすることがありますが、文法的に無茶苦茶なメールが届くと、要注意人物として慎重に対応します。

複雑なことをすれば、高度なことをやっているように見える
なぜ文部科学省がこのような批判を受けるような試験を導入しようと考えたのでしょうか? 私は自分の業務経験から以下のように考えています。
会社の業務のなかで、一見、簡単そうに見えて、なかなか解決策が見つからない問題に直面することがあります。そのような状況で、事情をよく分かっていない幹部から「何でこんな簡単な問題が解決できないんだ! そんな方法をやっているからダメなんだ、もっと違う方法があるだろう。しっかりやれ!」という無責任なことを言われたときにどのように対応するのかというと、「複雑な方法でやる」、「権威のある人が言っている方法でやる」ということがあります。
例えば、「この問題を解決することに効果があるとされる◆◆理論にもとづいた◇◇解析法によって、データを解析し、最適な解決策を見出すべく鋭意努力中であります」とか、「この分野の第一人者であるかの※※博士が提唱されている▲▽▲▽法で対応すべく、分析方法の習得に当たっております。詳細はお時間のあるときにじっくり説明させて頂きます」とか言ってやると、その無責任なその幹部を黙らせることはできます。なぜなら、「複雑なことをやると、高度なことをやっているように見えるから」です。(もちろん、問題自体は解決しません)
今回の外部の英語試験活用も、一向に向上しない英語力に対する無責任な批判に対して、文部科学省が責任を回避するために、「複雑な試験」と「権威ある試験」を使ったのだと思います。たとえ、英語力が向上しなくても、「複雑で権威のある試験を導入したのだから、やることはやった」と言い逃れできます。
文部科学省は、「英語は日本人にとって難易度が高いから習得することが難しい」と分かっていても「難しいからできない」とは言えないので、「問題は解決しないが、批判をかわせる方法」を採用したことになります。
(今回の文部科学省の対応は、末端サラリーマンの私とやっていることが同じなので、親近感を覚えた次第です・・・)
結局、文部科学省は自分たちへの批判をかわすために受験生に余計な負担を強いたことになるのですが、悪いのは文部科学省ではなく、問題の本質を理解せずに無責任な批判をする人たちです。

対応策
英語でこのような問題が生じるのは、英語教育に対するニーズが大きく二つに分かれるからだと思います。将来、知的生産系の仕事をするために大学にこうと考えている高校生にとっては文法の授業は意味があるかもしれませんが、高卒で肉体労働や国内土着産業の仕事につこうと思っている高校生にとって文法の授業は苦痛でしかありません。彼らにとって重要なことは、「新婚旅行で海外に行ったときに、パートナーの前で恥をかかないこと」です。
人数としては、知的生産系よりも、国内土着産業系で働く人の方が圧倒的に多く、彼らも有権者として英語教育に意見を言う権利はあるので、自分の役に立たない大学受験に向けた文法中心の英語教育に否定的な意見を言うのは当然です。政治家として有権者の多数を占める彼らの票が欲しければ、彼らの意見に迎合する必要があります。
高校教育に文系と理系の区分けがあるのだから、英語教育も大学受験用と海外旅行用に分けてはどうでしょうか? 大学に行くつもりのない人たちには、海外旅行をしたときにホテルやレストランでのやり取りに特化した会話の勉強をしてもらって、大学受験の簡素で公平な制度を混乱させるような余計な意見を言わせないことが重要です。

英語ができるようになる人の特徴
私の周りの高学歴な人の大部分は英語は話せないのですが、日本で普通に育った人で英語を完璧に話せる人もそれなりにはいます。私の観察では彼らには次の二つの特徴があります。

①記憶力がいい
英語を習得するためには、膨大な単語を覚える必要があるので、記憶力がいいほど有利です。私の知っている人は、「英語の単語なんか、一回見れば覚えられるだろう」と真顔で言います。その人は携帯が出始めた頃も電話帳機能を使っていませんでした。なぜなら、電話番号も一回見れば覚えられるからです。

②リスニング力が高い
語学留学をしているときのルームメイトはリスニング力が高く、部屋でテレビを見ていると、「こういうシチュエーションでは、こういう表現を使うのか」とか呟いていました。私には英語の発音は雑音にしか聞こえないので、英語のテレビ番組を何時間見ても英語の勉強にならないのですが、リスニング力が高いと英語のテレビ番組や映画を見るだけで英語の勉強になります。研修前のTOEICのテストの点数は私の方が高かったのですが、帰国時のテストの結果では大幅に水を開けられてしまいました。

井上 孝之

プロフィール
リスニングが苦手だったころは、TOEICのリスニングで400点ぐらいとれれば、ある程度、聞き取れるようになると思っていましたのが、自己最高点の435点取っても、全く何も聞き取れないということが分かって驚愕している技術系サラリーマン。



2019年10月19日土曜日

防災にかけるコストは多すぎても、少なすぎてもいけない

今回の台風19号の被害を受けて、かつての長野県の田中康夫知事や民主党政権が批判されていますが、それは妥当でしょうか?

私の技術的な専門分野に「防災」が含まれているので、防災にかけるコストを考えるうえで参考になる「総費用最小化の原理」という考え方を紹介します。

この考え方は下記のグラフに集約されます。


横軸を「構造物の防災性能」とします。川の堤防や津波対策の防潮堤の高さ、ダムの貯水量、地震対策の耐震強度のように大きくするほど防災性能が高くなるものがこれに該当し、グラフの右に行くほど、防災性能は高くなります。

縦軸は防災施設の建設費用または災害時の被害額の金額とします。

青線は防災施設の建設コストを表し、コストをかけるほど防災性能は高くなるので、左下から右上に伸びるグラフとなります。

また、緑線は災害が発生したときに生じる被害額(厳密には、発生する被害額×災害が発生する確率=災害によって生じる被害額の期待値)を表し、防災性能が高いほど発生する被害は小さくなるので、左上から右下に伸びるグラフとなります。

結局、構造物の所有者(堤防のような公共物の場合はその地域の住民)は、防災設備の建設時に建設コスト(青線)を負担し、災害時には復旧費用(緑線)を負担する(あるいは災害の被害を被る)ことになるので、この合計値(赤線)が構造物の所有者が構造物のライフタイムで負担するコストの総額ということになります。

赤線を見れば分かる通り、このグラフは下に凸であり、このグラフの最小値のところが「経済合理性から考えた最適な(ちょうどいい)防災性能」ということになります。

防災性能がこの最適値よりも小さければ災害時に過大が被害が生じ、大きければ防災施設への過大投資(無駄遣い)ということになります。

もし、この「最適な防災性能」を超える災害が起これば、その施設は「壊れる」ことになりますが、無限に頑丈な施設を造ることはできないし、また、防災対策にだけお金を使うわけではないので、このレベルの性能で割り切る以外にはありません。

このグラフは、あくまでも概念を示したものなので、この最適値は方程式を解けば出てくるような単純なものではありません。時間の経過とともに価値観が変化して、「何を大切だと思うのか」が変化すれば、この最適値も変化します。また、災害によって失われる人の命も金額に換算してグラフに反映させることになります。

このグラフから読み取れることは単純で、「防災性能には最適値がある」ということです。従って、最も重要なことはこの最適値がどのくらいなのかを見極めることが防災対策の核心部分となります。この最適値を考えない人に防災を語る資格はありません。

防災施設について、災害が起こる前は「無駄遣い」と批判し、災害が起こった後は「防災意識が低かった」との批判が生じるのは、「最適な防災性能をどのように設定するのか」という思考が欠けていたからです。

今回のように災害が起こった直後には、極端に高い防災性を求め、記憶が薄れるに従って、防災性能は低くていいというように感情的に考えてしまうことも、防災にかけるコストとその結果として得られる防災効果のバランスを考えていないためです。

では、どのように「最適な防災性能」を決めればいいのでしょうか? それには、専門家が基本的な計画とコスト試算を示し、それをベースとして、関係者が「それで十分なのか、足りない事項は何か、それを実現するためにはあとどのくらいのコストがかかるのか、本当に守りたいものは何か、災害時に失われてしまっていいものは何か」等を洗い出して、計画とコスト試算を繰り返して、関係者の多数が納得できる計画にたどり着く以外にないと考えています。

洪水対策を例に考えるなら、コストをかけて堤防を高くするのか、堤防の高さはそこそこにして、洪水浸水想定区の人たちには引越支援をするのか、避難所を作って人命だけは守れるようにして、物的被害は保険金で買い替えるのか等の選択肢について、コスト試算をして、コストと効果のバランスを考えながら、関係者が納得できる計画を模索することになると思います。「最適な防災性能」とは、堤防の高さだけではなく、水が堤防を越えたときの二次的な対策も含めて検討されるべきです。

かつての自民党政権は、「雇用を生み出す」という目的のために防災性能を過剰に高くしていたと私は考えています。このことが「無駄遣いをしているのではないか」との疑念を生み出し、長野県の田中康夫知事や民主党政権を生み出したのだと考えています。

このように、「過剰に高い防災性能を設定してしまうと、揺り戻しによって防災施設への過少投資に陥り、かえって危険な状態を作り出してしまう」ということこそが今回の台風被害の最大の教訓だったのではないでしょうか?

今頃になって、田中元知事の脱ダム宣言や民主党の公共工事削減を批判している人たちは、あの当時、この最適な防災レベルについてどのような考えを持っているのでしょうか?

私は、長野県の田中康夫知事や民主党政権の誕生は最適な防災性能のレベルを考えるうえで不可避なプロセスだったと考えています。このように過剰投資と過少投資を繰り返しながら、最適値に収束していくことになると考えています。


※参考サイト
http://www.gogh.nuac.nagoya-u.ac.jp/~laboM/yasu/2003_Sympo.pdf
(6ページ目)

井上 孝之

プロフィール
長野県に田中知事が脱ダム宣言を行ってことも民主党が公共工事の見直しを行ったときも支持していたし、そのことを後悔していない技術系サラリーマン

2019年10月5日土曜日

部落問題の思い出

私は関西のとある都市出身で、私が通っていた中学校の学区内には部落地区がありました。そこで経験したことを部落問題を知らない人に話すとみんな興味深く聞いてくれます。
なお、噂話として聞いたことは、『「・・・」を言われています』という形で書きます。その噂が本当かどうかは確認できないのですが、私の出身都市でそのような噂が公然と話されていること自体は事実です。
また、ここで書かれているのは私が中学生だった約40年前の話なので、今がどうなっているのは知りません。

私の通った中学校の学区は二つの小学校の学区が合わさったもので、私の小学校の学区には部落地区はありませんでした。従って、中学校で部落問題を初体験することになります。

中学校の入学式の日に隣に座った子と仲良くなりました。その子が入学式が終わったあとに、「職員室に用があるから一緒に行こう」と言うのでついて行くと、その子は文房具セット(ノートやフォルダ、筆記具が入っていて、30cm×20cm×10cmぐらいのサイズだったと記憶しています)を受け取りました。そのとき、その子はなぜそんなものを受け取って、私は受け取ることができなかったのかを理解することはできませんでした。この子は部落の子でした。

その後、人権の授業でその件についての説明がありました。要するに、かつて部落の子供たちは教育を受ける権利を奪われて、その結果として低賃金の仕事にしか就けず、その子供たちも教育を受けられないという悪循環に陥っていたので、その悪循環を打ち切るために、他の子どもたちのよりも手厚く、税金で教育をサポートしているのだと。彼らは一般の生徒であれば有償の体操服や音楽で使う縦笛等もタダで支給されます。修学旅行もタダで行けます。

ちなみに、生徒は修学旅行に向けて、月々数千円を積み立てるための封筒が配られるのですが、修学旅行の代金を積み立てる必要のない彼らはその封筒の使い方が異なります。彼らはその封筒に「鉛筆がほしい」、「ノートがほしい」と書けば、税金で購入されたものが支給されます。クラスの担任の先生がホームルームの時間に持ってきて、クラスのみんなが見ている前で堂々と渡します。私も最初は違和感を感じましたが、そのうち慣れてしまいました。

さて、「部落の子」ですが、誰が「部落の子」かをクラス全員が知っています。それは前述の人権の授業のときにこの子達がカミングアウトさせられて、「私たちが優遇を受けているのは、昔、差別があって、今でもその差別が残っているからで、私たちも早くそのような差別が完全になくなってほしいです」というような意見を言わされているからです。学校での有償のものの扱いは明らかに他の子と異なり、家に遊びに行くと「行けばそれと分かる地区」であり、差別がない社会を目指しているのだからカミングアウトしても問題ないということで、「部落の子」であることを隠す感じはありませんでした。

私の学校の場合は、「部落の子」は各クラスに5~6人くらいいたと思います。このぐらいいると、頭のいい奴もいれば悪い奴もいるし、運動神経のいい奴もいれば悪い奴もいるし、美人もいればブスもいて、何らかの傾向があるわけではないので、「部落の子」も普通の人間と認識されていて、クラスの中での差別はなかったとも思います。私もまったく普通に付き合っていました。

私の通った中学校は学区内に部落地区を抱えているので、予算が潤沢に支給され、冷房が導入されたのも、少人数教育が実施されたのも、市で最も早い学校の一つであり、様々な設備が充実していたのは事実であったので、私自身もまた部落問題で恩恵を受けた人間と言えるかもしれません。

彼らの住んでいるところですが、市が建てた10階建てぐらいの集合住宅に住んでいます。家賃は格安と言われています。通常、マンションというのは売られるときは商品なので、何らかのチャラチャラしたところがありあすが、彼らの住んでいる集合住宅は最初からある特定の人たちが住むことを前提に建てらえていて、外見的に商品性が全く感じられないので、見れば、「それ」と分かります。結果的にその建物が「その地域」であることの目印になっています。

路上駐車が多いこともその地域の特徴でした。近くに警察署があっても取り締まらないためだと言われています。

彼らの就職先ですが、市の職員の募集に優先枠があるので、就職先には困らないと言われています。これについは噂話として聞いて、本当かどうかを確かめるすべはないのですが、私の同級生に「俺は勉強ができなくても就職先には困らない」と言っていた奴がいたことは事実です。

私の同級生にすごく頭のいい奴がいました。彼が今、どこで何をしているのかは分かりませんが、多分、それなりの大学を出て、それなりの企業に就職していて、「部落とは全く関係がない」という感じで生きているのだと想像しています。私が想像するに、彼のような頭のいい人は「その地域」をさっさと出て、別の場所で別の人生を送るようにする一方で、別の人生を切り開けない人たちは「部落の人間」という特権にしがみついて、「その地域」に残って市の職員にでもなっているのではないかと考えています。

最後に「井上」という苗字ですが、その地域に多い苗字でした。私自身は嫌な思いをしたことはありませんが、私の姉は部落の人間から「お前も井上なら、部落の人間ということにしておけば、学校にかかる費用は全部タダになるぜ」というようなことを言われて、激怒して部落差別主義者になってしまいました。


井上 孝之

プロフィール
差別は良くないけど、彼ら受けている優遇もまた過剰であると思っている技術系サラリーマン



2019年9月21日土曜日

「風評被害は絶対に起こしてならない」という認識を社会で共有できない理由は何か?

小泉環境相が就任早々の福島第一原発事故に関連したスタンドプレーにより、福島県沖で取れた魚の「風評被害」がクローズアップされましたので、思うところを記したいと思います。

福島第一原発周辺ではトリチウムを自然界よりも多めに含んだ水(処理水)が大量に備蓄されていて、近い将来、満杯になると予想されています。

結局、海に流す以外の解決策はないのですが、この解決策については、福島県の漁協が「風評によって捕れた魚の商品価値が下がる」として反対しています。

処理水が海に放出されてると、マスコミがあたかも人体に有害な物質が海に放出されると騒いで、これによって消費者は福島県沖で取れた魚を買わなくなるという風評被害が起こるので、福島県の漁協の立場に立てば、処理水の放水放出に反対してできる限り遅くさせることは合理的です。

風評被害というのは、売り手にとっては品質に問題がない商品であっても消費者に買ってもらうことができなくなり、消費者にとっては品質に問題がない商品であっても誤った情報を得ているのでその商品を選択することができず、購入する商品の選択肢が減ります。社会全体の影響でみれば、経済活動が停滞し、税収も減ります。

しかも不安を煽って誤った情報をまき散らしたマスコミが儲けるという社会にとって最悪の結果となるので、「風評被害」は絶対に防がなければならない問題であり、誤った情報をまき散らす連中には断固とした態度をとる必要があると思っているのですが、そのような意見はほとんど聞かれません。

小泉進次郎氏も風評と戦うのではなく、風評被害が起こることを前提に「風評の被害者と寄り添う」とか言っています。

前述の通り、「風評被害というのは、生産者にとっても、消費者にとって、社会全体にとっても、損害を被ることとなり、風評をばらまいたマスコミが儲けるという最悪の事態」となる訳ですが、ここで疑問となるのは、「風評被害は絶対に起こしてはならない」という認識を社会で共有できないのはなぜかということです。

マスコミに業界とは全く無縁な私なりに考えた結論は以下の通りですが、いかがでしょうか?

1.風評はマスコミにとっては都合がいいから
マスコミにとっては、「風評」とは言わないまでも、視聴者や読者の不安を煽って視聴率や販売量を稼ぐのは常套手段です。不安を煽って収益を上げることをビジネスモデルにしているマスコミにとっては、「福島第一原発の処理水が人体にとって有害である」と一般に認識されていることは、「都合がいいこと」であり、誤った認識を修正するような報道を行ったりはしません。
また、誤った認識を修正するような動きには無視することで対応します。この点については、マスコミ業界で一致団結して無視しているので、自分自身で処理水の有害性について調べるような物好き以外の人は漠然と「処理水は有害」と認識している状態が維持されています。
マスコミが誤った情報で不安を煽っていることについて批判されると、「処理水が絶対に安全とは言えない」とか、「処理水の安全性が証明されたわけではない」という常套句によって批判をかわすことができるので、風評が信じられている状態が続きます。

2.消費者は風評によって自分に実害が出ているとは認識していない
ものが溢れる時代にあっては、一地方の産品が供給されなくなっても、他の地域の産品で代替できるのであれば、消費者は表面的には困りません。品質に問題のない産品を作っている生産者が困ったとしても、テレビで危ないと言われている産品の安全性をいちいち自分でチャックすることは面倒なので、そんな商品には手を出さないというのは合理的な判断なようにも思われます。
しかし、そのような行動が目に見えない形で消費者の選択肢を狭め、競争が阻害されることによって価格の上昇をもたらして、消費者に損害を与えています。

3.自分で処理水の備蓄コストを負担していることを知らない
福島第一原発周辺の貯水タンクの映像を見れば、その貯水のためのコストは誰が負担しているのだろうと疑問に思うのですが、他の人は思わないのでしょうか? もしかしたら、憎たらしい東電の社員の給料を減らして貯水のコストに充てていると思われているのかもしれませんが、主には東京電力管内に住んでいる人の電気代で負担されています。東京電力管内に住んでいる人は科学的には全く効果の対策のせいで電気代が上がっていても問題があるとは思わないのでしょうか? 現代では、電気を使わない生活をすることはほとんど不可能なので、電気代が上がると、自分だけではなく、特に所得が少ない人の生活を直撃して重い負担を強いることになります。

最後に
報道機関の役割は「知らないことを知らせる」だけでなく、「社会に誤った認識があればそれを修正する」ということもあると考えているのですが、それともマスコミには「安全なものを安全という責任はマスコミにはない」のでしょうか?

井上 孝之

プロフィール
科学に携わる者として、石原元都知事の「科学が風評に負けるのは国辱だ」という言葉が胸に刺さって、敗北感に打ちひしがれている技術系サラリーマン


2019年9月8日日曜日

韓国問題/嫌韓をどこでやめるのか?

私は外交も安全保障も日韓の歴史も素人なので、盛り上がている韓国ネタに参加することができなかったのですが、一般人でも参加できる論点を見つけたので、論じてみたいと考えています。

それは「嫌韓をどこでやめるのか」という問題です。

韓国の人たちにとっては「反日は永遠のテーマ」と思っているかもしれませんが、日本人にとっては、「いくつかの条件が整えば嫌韓をやめてもいい(というか、条件さえ整えばもう韓国とは関わりたくない)」という問題だと思います。そうであるならば、どのような条件が整えば嫌韓をやめられるのかを整理しておくことには意味があると思います。

嫌韓と言われる人も、韓国と戦争してソウルを陥落させたい訳ではないと思います。「正常の外交関係」になってくれさえすればいいだけです。

その「正常の外交関係」になるまでの道筋を、左翼系の人たちは最初から相手の要求を呑んで良好な関係を築く方向で取り組む方向を主張していると思いますが、一時的に関係が悪くなったとしても、両者が言いたいことを言うことによって相互理解を導いた方がいいと私は考えています。

「雨降って地固まる」という言葉があるとおり、物事には一度、悪い方向に振れた方が結果的に以前より良くなることは多いので、一時的に関係が悪くなることを恐れてはならないと思います。ただし、日本と韓国との間に必要なのは「雨」レベルの軋轢ではなく、「洪水」レベルの軋轢が必要だと思っていす。

さて、私としては以下の条件が満たされれば、嫌韓をやめていいと思います。

1.韓国人が反日が不毛であることを学ぶこと
韓国が反日をエスカレートしても大部分の韓国人にとっていいことは何もありません。
消費者の観点としては、不買運動で買いたい商品が買いにくくなりますが、日本企業は大して痛みを感じません。労働者としては、日本への売り上げが減って給料が下がります。また、日本からの投資が減って、働き口が減っていきます。製造業では、できる限り日本の部品は使わないようにすると設計上の制約が大きくなって、製品のクオリティが落ちます。日本人と良好な関係を築いている人たちにとっても迷惑な話です。
結局、日韓関係が悪くなって得をしているのは、反日を煽って議席や支持率を獲得できる韓国の政治家だけです。韓国の人たちは、政治家に扇動されて、国内の問題から目をそらすために利用されているだけです。問題は韓国の人たちがいつ、このことに気が付いてくれるかです。
気づいてくれさえすれば、もう韓国の人たちと敵対する必要はありません。日本人と韓国人は協力して嘘の情報で両国の対立感情を煽る政治家と戦うことになります。

2.過去の出来事は検証可能な証拠にもとづいてに歴史学者に検証させること
過去の出来事で見解が分かれれば、証拠に基づいて検証する以外にありません。犯罪捜査であろうが、歴史上の問題であろうが同じです。
日本人は過去の出来事を否定しているわけではなく、もし批判を受けるとすれば証拠によって検証された事実に基づいて批判されるべきと考えているだけです。また、嘘や誇張があれば反論するのも当然の権利だと考えています。
もし韓国人が自分たちの主張に十分な証拠や根拠があると主張するなら、それを提示して、あとは歴史学者の検証を待てばいいだけです。日韓で見解に違いがあれば歴史学者同士の検証に委ねざるを得ません。相手国の歴史学者が公正な判断をするのかという疑念があるのであれば、第三国の歴史学者を検証チームに加えてもいいかもしれません。
結局、「検証可能な証拠にもとづいてに歴史学者が導き出した結論」が「現時点でたどり着くことができる最も真実に近い事実」ということになります。従って、「過去の出来事は歴史学者が導き出した結論にもとづいて議論する」という点を受け入れてくれれば、日本人としても事実に基づいた議論に嫌韓の感情を抱くことはない。
ちなみに、歴史教科書の相互検証も求めたいところではありますが、韓国人にこれを期待することは無理でしょうか?

3.締結した約束は守ること
池田信夫さんと田村和広さんが国際社会では「約束を守らないことも合理的な選択肢の一つ」というような記事を投稿されていますが、これには日韓関係はこれに当たらないと考えています。なぜなら、隣接している日本と韓国は今後も様々な問題で約束を取り交わしていく必要があるからです。
「約束を破る」ということは、「相手も約束を破っていいと認めること」であり、「次から約束をしなくていいと認めること」でもあります。これでは隣接する国同士が両国間にまたがる問題を交渉することができません。隣接する国同士がこれからも様々な問題を協議していくためには「お互いに約束を守る」という共通認識を持つことが必要です。
お互いに約束を守るという前提を韓国人が受け入れてくれるなら、日本人は嫌韓をやめることができます。
まずは、過去に交わした約束を守るところから始めてもらいたいと考えています。

4.安全保障上の価値観を共有すること
素人目で見る限りは、アメリカチームに属しながらも、心情的にはレッドチームに鞍替えしたいという感じでしょうか?
アメリカチームに属する以上は、「北朝鮮の核を認めない」、「中国の海洋進出を認めない」という価値観を共有してもらう必要があるのですが、そうするつもりはあるのでしょうか?
また、GSOMIAの破棄については、結果的に意味もなくアメリカ軍や韓国軍の兵士や自衛隊員の危険度を増しているので、即刻、破棄を取りやめるべきです。
前から疑問に思っていることは、韓国の子供たちは学校で「日本は残虐な侵略者で、北朝鮮は同胞」と教えられていて、大人になって軍隊に入れば、「日本と協力して、北朝鮮と闘う」なんてことはできるのでしょうか? 子供たちに「安全保障上の友好国」を敵として教えている時点で、「まともな安全保障体制を構築するつもりがるのかどうか」疑問です。

最後に
私は嫌韓をやめる条件として上記の4つ挙げましたが、これについては人それぞれ考えがあると思うので、自分の考えを述べられてはいかがでしょうか?

私は、これらのことは「文明国の人間として当然のこと」と考えていますが、このうちのいくつかは韓国人には受け入れがたいものがあると思われるので、最初は断固拒否すると思いますが、韓国人が受け入れていくのを待ちたいと考えています。

井上 孝之

プロフィール
個人的に知っている韓国人はみんないい人なので、彼らとわだかまりなくつきあえるようになる日が待ち遠しい技術系サラリーマン



2019年8月14日水曜日

人を不快にする芸術が満たすべき条件

国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止になったことを受けて、「人を不快にする芸術」が満たすべき条件について考えてみました。
この場合の「人を不快にする芸術」というのは、「美しいものをつくったつもりが、結果的に人を不快にしてしまうものになった」という意味ではなく、「意図的に人を不快にする要素を芸術作品に盛り込むことで、何らかのメッセージを伝えようとする作品」のことを指します。

1.大義
人に不快な思いをさせたり、反感を買ってまでも自分の芸術作品を展示するには、その不快感や反感を上回る大義が必要です。
「これまで目を背けていた事実に気が付いてほしい」、「これまで注目されてこなかったこの問題について考えてほしい」、「これまでと異なるものの見方をしてみませんか」等のアピールにより、一時的には不快になっても、結果的に世の中が良くなる方向に作用することが期待できる内容であることが必要です。これがなければ、単に人を不快にさせるだけで終わってしまいます。
ところで、「表現の不自由展・その後」展には、どんな大義があったのでしょうか?

2.信念
人を不快にさせる作品を人の目に触れるところに展示するのだから、当然、反発が起こります。中には展示を中止させようとする人も出てきます。
「人を不快にする作品」を展示させるためには、そのような反発に対してぶれない信念が必要です。反発が起こって、それに屈して安易に作品を取り下げてしまえば、「表現の自由があるはずなのに、反対運動が起これば、芸術家は世の中の反発に屈して作品を取り下げる」という悪い前例を作って、これから作品を発表しようとしている人の活動に悪影響を与えてしまいます。
ところで、「表現の不自由展・その後」展の関係者には、どのくらい強い信念があったのでしょうか? 本当に強い信念があれば、展示するスペースを自分たちで確保して、運営や警備の費用もクラウドファンディングか何かで集めれば、改めて作品を展示することは何とかなるように思われますが、それをやらない理由は何なのでしょうか?

3.戦略
見る人を不快にさせる作品を展示するのだから、それを見て不快に思った人は抗議の声を上げたり、様々な方法でその展示をやめさせようとします。その様々な妨害を予測して対策を講じておかなければ、その作品を展示し続けることはできません。反発を受けて引き下がらざるを得ない状況においこまれれば、作品を発表しないのと同じ状況となってしまうため、自分の主張を表現し続けるためにも、反対活動をどのようにかわすのかの作戦を考えておくことは、自分の主張を世に問うための必要条件の一つです。強烈な反対が予想される場合には、最初の展示場で展示をやりきる方策だけでなく、最初の展示場がダメになったときに、二の矢三の矢を用意しておくぐらいのことはやっておく必要があります。
ところで、「表現の不自由展・その後」展の関係者には、どのような戦略があったのでしょうか? 展示内容を考えれば、相当過激な妨害活動も予想されるということは相当緻密な戦略が必要なようにも思われますが、傍目には緻密な戦略が見えてこないのはなぜでしょう?

4.誠実性
一つの芸術作品が展示されるだけで、伝えたいメッセージが明確に伝わるわけでもないので、反発が起これば、「何を訴えたいのか、なぜそのメッセージを訴える必要があるのか、そのメッセージが社会全体に伝わればどのようないいことがあるのか」を誠実に説明していくことが必要です。そして、何より反発する人にも言論の自由があるので、その権利を尊重する姿勢も必要です。反発する人にレッテルを貼って攻撃したり、コロス・リスト加えるなどと言うのは最低の対応です。
ところで、「表現の不自由展・その後」展の関係者からは、どのような説明があったのでしょうか? 大した説明がないのは、「本当は訴えたいことが何もないから」と考えていますが、いかがでしょうか?

◆「表現の不自由展・その後」の評価について
私の評価では、「1.大儀」については作品を作った人は「大儀がある」と思っていたように思うのですが、2~4については、ほぼ0点を付けざるをを得ないと考えています。


井上 孝之

プロフィール
1980年代の洋楽の世界では「BBCが放送中止にした」というのが最大のPRフレーズだったことを懐かしく思い出している技術系サラリーマン


2019年7月30日火曜日

NHKの存在価値をどのように評価するか?

足立康史さんの記事「NHK改革を地上波にのせたN国党の功績」を読んで驚きました。今後も勢力を拡大して、様々な改革に取り組んでいこうという政党の議員としては、視野が狭すると思います。

NHKの問題は「見たくない人間は見ないのだから、金も払わなくていい」というレベルの低い問題ではないと考えています。

私は、NHKの根本的な論点は「NHKは公共放送なので、NHKを見ない人にとっても社会全体に及ぼす影響という観点では存在価値はある。その効果をどのように評価し、そのコストをどのように負担するのかというか」という点にあると考えていますが、そのような観点での議論が深まらないことに不満を感じています。NHKをスクランブル放送にしてしまうという意見は公共放送という観点が欠落していると思います。

私はNHKの存在は市営図書館に似ていると考えています。世の中には市営図書館を全く利用しないという人は大勢いますが、図書館があることによって、その地域の知的水準や文化水準が向上することによることのメリットは広くその地域に住む人に及ぶので、本を借りない人にとってもメリットがあり、広く市民から集められた税金で運用することが許容されているのだと思います。

NHKも同じで、公共放送として日本全体の知的水準や文化水準の向上が存在目的なので、テレビを持っている人は誰でも見ることが見ることができなければならないし、民放が視聴率の関係で放送できないような地味だけど国民が知っておくべき内容についても放送をする必要があると考えています。WOWOWのように映画や特定のスポーツに興味のある人だけ見ることができる放送とは根本的に存在意義が異なると考えているので、スクランブル放送にしてしまうということは解決策になりません。

NHKが市営図書館と異なるのは、「報道」という行政機関と距離を置かなければならない機能があるため、税金ではなく、受信料という方法で運用費用を賄うことにしている点にあるのですが、この点こそが時代の変化に伴って変化が求められている点であり、公共放送という観点からどのように変えていくのかを議論しなければならないと考えています。

私の意見は以前に投稿したとおり、NHKは税金で運用すべきということです。理由は、公共放送としての目的が「国民全体の知的水準や文化水準が向上」であることと、行政機関の政策が複雑さを増しているのに対して、民放の報道機関が過剰に反体制的で正しく政策を理解するための報道という点で問題があるためです。

かつて、太平洋戦争中に大本営発表が行われていたときは、NHKしか情報源がなくて、その唯一の情報源が嘘を報道していたことが問題だったのですが、今では、十分な数の民放があり、個人でもYouTubeで放送に相当する行為を行うことが可能となり、どの報道機関であっても問題のある報道を行えばネットで総ツッコミが起こる時代であれば、NHKが税金で運用されたとしても問題ないと考えています。

この点については、「そもそも公共放送はいらない」、「受信料に固執すべき」等の意見があると思うので、多様な意見が戦わされてもいいと思います。

さて、NHKが公共放送として期待されることとして以下の効果が挙げられます。たとえNHKを見ない人であっても、NHKがこのような放送を行っていれば、社会全体が良くなるという形でメリットを享受できます。

1.教養番組
実施することの効果は前述の図書館と同じと考えています。「コズミックフロント」や「英雄たちの選択」のようなクオリティの番組を民放で作ることは無理だと思います。

2.国や自治体の制度の理解向上
民放では視聴率の関係で敬遠される点ですが、社会制度が円滑に運用されるために必要なことです。このような地味でややこしい問題について分かり易い番組を作るためにはそれに特化した人材を育てる必要があり、民放にはできない課題であると思われます。

3.海外への情報発信
NHKの報道は正しいのかという問題はありますが、少なくとも欧米の報道機関がろくに取材もせず、いい加減な情報を発信している現状では、日本の報道機関が十分な取材のもとに適切な情報発信を行っていくことは重要な意味があると考えます。

3.健康番組
特定の病気になったときに関する情報番組は健康な人には関係ないのですが、その病気になると死活問題となるので、様々な病気について正しい情報を提供してくれる番組は重要なのですが、「きょうの健康」のような視聴率を取ることよりも正確な医学情報を提供することに特化した番組を作ることは民放ではできません。民放がやると「あるある大事典」のような末路にならざるを得ないと思います。

4.地方都市での放送
東京に住んでいれば民放の数は十分ありますが、地方都市ではそのようなことはありません。日本のどこに住んでいる人に対しても、適切な情報提供を行うことは重要なことであると考えています。

5.古典芸能
私もほとんど知識はありませんが、日曜日の夜に教育テレビで放送されています。私も見ることはありませんが、このような放送が行われていて、国民が古典芸能に触れる機会があることには意味があると思います。

最後に
私はNHKはよく見るので、今後も今のような放送内容を続けてもらいたいと考えていますが、NHKの存在について肯定的な記事を書くのが私しかいないというのは、NHKはそんなに必要とされていないということでしょうか?

井上 孝之

プロフィール
NHKの教養番組とテレビ東京の経済番組に加えて、最近は朝ドラも見るようになった技術系サラリーマン



「国葬」は「反対運動マニア」の祭典となる

私は「反対運動マニア」というカテゴリーに分類すべき人たちが世の中に一定数いて、政策の実行に当たってはその行動パターンを把握して対策を講じる必要があると考えていますが、そのような観点で論じている人は見当たりません。 確かに、「これは『反対運動マニア』対策のためにやってます」と...